文脈の妄想

気づいたことや思ったことを書き留めていきます。基本的に引用や推敲しているわけではなく、学術的な視点で見ればあくまで適当です。読みにくい部分もあるかもしれません。異論反論、その他ご指摘もあればお気軽にどうぞ。コメントは基本的にお返しします。

作業効率アップのための環境構築(机上編)

人文社会科学系の研究は基本的に文献とにらめっこしつつレポートなり論文なりを書くという形だと思いますが、そのための作業効率のアップやストレスの軽減をどう目指すかが問題になってきます。

ということで、筆者の机はイロイロと導入した結果、以下の写真のような形になっております。

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ディアルディスプレイとブックスタンドを導入して随分と効率が上がった気がします。具体的な製品の選び方などは以下。

(1)複数枚モニタの導入

大型のデスクトップタイプのパソコン(iMac27インチなど)だと1枚でも十分作業ができる気はしますが、ノートPCだとどうしてもPC側の画面に一度に表示できる情報は限られます。モニタを2枚にすることで(最近のPCやモニタはHDMIで接続できます)、片方にPDF化した論文、もう片方にワードソフトなどを表示することでいちいち画面を切り替えなくても読みながら書く、ということができます。CiNiiでダウンロードできる論文も多く、スキャナを使った自炊を含めて、パソコンで論文や本を読む機会が増えつつある中、こういった環境は結構重要だと思います。PDF編集ソフトやOCRがあるとなお良しです。

ディスプレイの選び方としては、縦置きができるというのがまず必須条件だと思われます。あとはデジタル接続可能なもの(最近のはほとんどだと思いますが)を選ぶのが無難です。写真のモニタはDELLのU2410fです。結構前のもので、ヤフオクで1万円ほどで落札しました。目に優しいIPSパネルだそうで、実際長時間覗いていてもあまり疲れを感じません。

単に研究のみに使う場合、3枚目はいらなさそうです。

(2)ブックスタンド

本を読みながらレポートなり読書ノートをパソコンで取る場合、引用したいのにタイピング中に本が閉じてしまいイライラすることが多々あります。ということで、本を開いたまま固定してくれるブックスタンドがいい仕事をしてくれるわけです。

筆者はカールのブックスタンダー NO.820とacttoのEDH-004を使っています。前者は文庫や新書など小さめの本を、後者はペーパーバックやハードカバーなどある程度大きさがあるものを挟むのに適しています。本の大きさに関わらずページを固定できる、安価なブックスタンドが見つからなかったので、使い分けです。おさえている部分の文字が読めなかったり読みにくかったりする場合がありますが、それを差し引いても手で抑えているよりは間違いなく楽です。

 

いじめの原因はなくせるか

小中高時代を思い返すと、自分の周りにいじめが全くなかったということはなかった。いずれも田舎の小さい学校だったのでいじめられっ子が誰かというのは親や教師は把握していたと思う。それもあり、暴力や無視といった直接的な被害が及べばすぐに問題となり、そこで一応おさまりはするのであった。クラスどころか学年を超えて生徒のほぼ全員に嫌われていた子もいたが、心優しい子もいたもので、度を過ぎたところでストップをかけるような場合もあったと思う。

だが、直接的な被害を受けないにせよ、その「行き過ぎ」がなくなればいいのだろうか、という問題は残る。

いじめる側の論理としてよく見られるのは、「いじめられる側にもいじめられる理由がある」というようなことである。実際に被害を加えないにしてもこのような言葉を言うこと自体がいじめへの加担だとする場合も多いし、言うまでもなく理由があるからといっていじめていいわけではないのだが、いずれにせよ、いじめる側はこの論理が正当なものとして通ると思っている節がある。

筆者の経験の限り、いじめられる子は、発達障害であったり、そうでないにしても、「キモい」と見られる子が多かった(というかほとんどだったと思う)。実際その子に対して暴力や物を隠すなどの直接的な被害はないにせよ、陰口としてその子のことを悪く言うという場面は数え切れないほどあるだろうし、学校行事などとなると、クラスの中で煙たがれていたこともある(筆者自身、このあたりについて当時問題意識を持っていなかったことは反省すべきである)。

結論から言うと、この根本の部分をどうにかしなければ、意味はないに等しい。

クラス内で笑いものにすることでその子を輪の中に入れた、という構図は実際に見られたし、「来る者拒まず」という形でクラス会などの集まりにその子が参加するとなれば断ったり自らの参加を拒否する人がいる、ということは記憶の限りなかった。ぱっと見でその子はクラスなり学年なりの輪に入ってはいるが、しかしながら、その子はあくまで輪の中での「他者」に留まっている。他の子との距離はどうしてもあったし、会話などがあったとしても、いわゆる「友達」としての関係が築かれていたかといえば答えは明らかにノーである。そしてそこにある論理は、「輪に入れない理由がある」という、いじめと同じものであるし、それは「正当」なものになってしまっている。

学校や教育委員会によってはいじめがあったという事実を認めたくない場合もあることも視野に入れないといけないだろうが、当事者・第三者ともにこの構図を明確にいじめだと断定する者はごくわずかではないだろうか。

解決するべきは、いじめと認知できるような被害という「出口」の部分ではなく、いじめられる理由――たとえば「キモい」「ウザい」あたりが定番だと思う――という「入口」からではないだろうか。それはもちろん、いじめられる側がなんとかして指摘される部分を直せ、という話ではない。加害者側がそういった感情を持つことを抑えることである。人間である以上特定の感情を意図して持たないようにする、ということは不可能である。筆者も特定の人物に対して「キモい」という感情を持ったことが全くないわけではない。「みんな違ってみんないい」を理念だけではなく実践の上でどうにか体現できないものだろうか。

百田尚樹氏講演会中止についての覚書

一橋大学KODAIRA祭での百田尚樹氏の講演会が中止になった。在学生の反対の署名などが影響したとのことである。

百田氏本人はこのことに関して自身のTwitterで「サヨク」による圧力があったとコメントし、彼の支持者はたかだか100名程度の反対活動で(一橋在籍の学生は学部・大学院合わせて約6000人)中止に押し切るのは民主主義を踏みにじる行為である、と息巻いている。

そもそもKODAIRA祭実行委員会が百田氏に講演を依頼したということが問題アリな気がする。本記事ではまずそのことについて触れたい。

KODAIRA祭 百田尚樹講演問題

一橋新聞によると、集客目的で、百田氏に本人の政治的な思想などには触れないよう依頼するので留学生やマイノリティの不安を煽ることはないだろう、という感じである。だが、結局のところ問題は「百田尚樹という人物を呼ぶこと」にあったはずである。

集客が期待されるほどの人物であれば、実際に講演で本人の政治的な思想に触れなかったとしても、百田氏がヘイトスピーチに加担する人物である、ということは留学生が知っていてもおかしくはない。そのような人物が自分の大学に講演に来る、とわかれば、百田氏が何を言うか、という不安だけではなく、そのような人物を呼ぶ大学も結局はそちら寄りなのではないか(このあたりはマイノリティ本人ではなくても感じる人はいるだろう)、と学生生活全体に不安を抱くことになりかねない。

こういったことを考えれば、百田氏に講演を依頼するということにならなかったはずである。今回の中止の決定は、多数決うんぬんではなく反対の声を聞いて実行委員会がなるほどと気づいたのだろうと推測するが(公式では「KODAIRA祭の理念に沿うものではなくなってしまった」ことと警備上の問題を述べている)、思慮が浅かったのではないかと思わざるをえない。

 

ついでに、百田氏を擁護する側の、多数決の原理を援用した実行委員会への反論についても触れておく。

実際、一橋内部生とはいえ100人強の反対の声はいささか少なすぎるように思える。いくら単科大学とはいえ6000人を超えていることを踏まえると、「少人数が無理やり中止に押し切った」と考えることはそれほど不思議な事ではないかもしれない。

学園祭に誰を呼ぶかは実行委員会の裁量に任せられているし、その点では自由である。が、この決定自体、所詮100人にすら満たないであろう少人数の委員会による決定である。そもそも百田氏を呼ぶかどうかを多数決にかけたわけでもなんでもない。学園祭自体に興味もなければ誰が来ようと知ったこっちゃない、という学生もいるだろう。決して百田氏の講演に関しては「反対100対賛成6000」ではない。

仮に反対と賛成の非が上記の通りだったとしても、そもそも反対運動が起きた事自体問題なのではないか。学術の場をベースにしていたり、極端な思想の持ち主でない人物の場合、基本的に誰を呼んでも、講演を決定した時点でこれほど大きな問題にはならなかっただろう。反対の声は一橋の教員や外部の人間にも見られたし、実際学園祭は一般にも開かれる点で大学内部のみの問題ではない。世間の大学の評価にも関わるだろう。

さらに言えば、マイノリティの不安を煽るであろうという問題もある。少数派の意見・心情を無視するというのは多数決の原理を後ろ盾にした「暴力」でしかない。なんでもかんでも多数決に訴えるというのはいささかやりすぎである。

言論弾圧だ、という主張もあったが、それを言うなら講演の依頼が来た時点で「政治的思想を喋るなとは何事だ」と言うべきだった、という話もあるかもしれない(当時のツイートまで遡ってないので実際にはあったかもしれない。あったらスミマセン)。少なくとも場所を問わず何も喋るな、というレベルではないので、一橋への非難を含めて自分が喋っても許される場所で喋ればいい。

 

ともあれ、本当に「泣き出す女子大生」がいたのなら、当日無理やり呼んで同様の反対運動が起きるよりは白紙に戻してしまって正解である。実行委員会の今回の判断はそれなりに英断だったのではないか。

まぁ、百田氏としては支持者の声が届いて自分の「正しさ」を再確認できた、という点ではいつもの構図である。