文脈の妄想

気づいたことや思ったことを書き留めていきます。基本的に引用や推敲しているわけではなく、学術的な視点で見ればあくまで適当です。読みにくい部分もあるかもしれません。異論反論、その他ご指摘もあればお気軽にどうぞ。コメントは基本的にお返しします。

いじめの原因はなくせるか

小中高時代を思い返すと、自分の周りにいじめが全くなかったということはなかった。いずれも田舎の小さい学校だったのでいじめられっ子が誰かというのは親や教師は把握していたと思う。それもあり、暴力や無視といった直接的な被害が及べばすぐに問題となり、そこで一応おさまりはするのであった。クラスどころか学年を超えて生徒のほぼ全員に嫌われていた子もいたが、心優しい子もいたもので、度を過ぎたところでストップをかけるような場合もあったと思う。

だが、直接的な被害を受けないにせよ、その「行き過ぎ」がなくなればいいのだろうか、という問題は残る。

いじめる側の論理としてよく見られるのは、「いじめられる側にもいじめられる理由がある」というようなことである。実際に被害を加えないにしてもこのような言葉を言うこと自体がいじめへの加担だとする場合も多いし、言うまでもなく理由があるからといっていじめていいわけではないのだが、いずれにせよ、いじめる側はこの論理が正当なものとして通ると思っている節がある。

筆者の経験の限り、いじめられる子は、発達障害であったり、そうでないにしても、「キモい」と見られる子が多かった(というかほとんどだったと思う)。実際その子に対して暴力や物を隠すなどの直接的な被害はないにせよ、陰口としてその子のことを悪く言うという場面は数え切れないほどあるだろうし、学校行事などとなると、クラスの中で煙たがれていたこともある(筆者自身、このあたりについて当時問題意識を持っていなかったことは反省すべきである)。

結論から言うと、この根本の部分をどうにかしなければ、意味はないに等しい。

クラス内で笑いものにすることでその子を輪の中に入れた、という構図は実際に見られたし、「来る者拒まず」という形でクラス会などの集まりにその子が参加するとなれば断ったり自らの参加を拒否する人がいる、ということは記憶の限りなかった。ぱっと見でその子はクラスなり学年なりの輪に入ってはいるが、しかしながら、その子はあくまで輪の中での「他者」に留まっている。他の子との距離はどうしてもあったし、会話などがあったとしても、いわゆる「友達」としての関係が築かれていたかといえば答えは明らかにノーである。そしてそこにある論理は、「輪に入れない理由がある」という、いじめと同じものであるし、それは「正当」なものになってしまっている。

学校や教育委員会によってはいじめがあったという事実を認めたくない場合もあることも視野に入れないといけないだろうが、当事者・第三者ともにこの構図を明確にいじめだと断定する者はごくわずかではないだろうか。

解決するべきは、いじめと認知できるような被害という「出口」の部分ではなく、いじめられる理由――たとえば「キモい」「ウザい」あたりが定番だと思う――という「入口」からではないだろうか。それはもちろん、いじめられる側がなんとかして指摘される部分を直せ、という話ではない。加害者側がそういった感情を持つことを抑えることである。人間である以上特定の感情を意図して持たないようにする、ということは不可能である。筆者も特定の人物に対して「キモい」という感情を持ったことが全くないわけではない。「みんな違ってみんないい」を理念だけではなく実践の上でどうにか体現できないものだろうか。